MARUが友達を家に呼びたいと言う。
まずは呼ぶ友達の家に1軒ずつ電話をして説明する。
クラスの住所録はないので(最近の学校では名簿を作っていないのだろうか?MARUの学校だけなのだろうか?)、うちの連絡先を書いた手紙をMARUに持たせる。
行きは私が学校までみんなを迎えにいく。
最初は「大げさな」と思っていたが、小さい子を狙った変な事件が多いことを考えると念を入れざるを得ない。
うちだけでなくどの家に呼ばれても行きと帰りは大人がついている。
昔は家に帰れば「遊びにいってきまーす」と飛び出していったものだが。
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私は7歳まで品川区の大井町に暮らしていた。
両親は生まれも育ちも鎌倉の人だったので毎週末、鎌倉へ遊びに行っていた。
祖母が亡くなり祖父が一人暮らしになり、私達家族は鎌倉の稲村ヶ崎にある父の実家で暮らすようになった。
それが7歳のことであり、それから24歳まで私はここで暮らしていた。
大井町から鎌倉に移り住んだ時、木が多いことも夜が暗いことも大井町とあまり変わらないなと思ったものだ。ただ、空を見上げれば真っ青でトビが空を漂い、海の香りが風に乗って漂ってくるところは違ったけれど。
稲村の家は「一の谷戸(いちのやと)」とも呼ばれている。近所のお店で配達を頼む時は「一の谷戸の○○まで」と言う。谷戸というくらいだから両脇を山に囲まれた谷間に家がある。山は低く子供達は小学校に通うのに山越えをして通う。
江ノ電で隣の駅とはいえ子供の足で歩けば30分はかかるだろう道を私も妹も卒業まで歩いて通った。それが当たり前だった。
学校では山越えは禁止されていたので江ノ電の線路沿いに歩いていたのだが、そのうち山越えの方が早いと分かると山越えで通うようになる。「山越え」はうちの両脇を挟む山を文字通り越えていく。これだと10分は短縮できる。
途中には桑の木、木苺林、栗の木があり季節毎にお楽しみがある。
農家も途中にあり、運がよければキゥイをもらうこともできた。
とったりもらったりした果物をかじりながら学校へ通う楽しみは格別であり、それは電車通いの子には味わえないものだという優越感も多少はあったことを覚えている。
暑い季節になると校長先生が瓶を片手に全教室を回るのが恒例だ。
瓶の中にはマムシが入っている。
「みなさん、山越えでくるときにこういう蛇を見つけたら走ってはいけませんよ。
そうっとそうっと逃げてくださいね。これに咬まれると毒が回りますからね。」
だから山越えはだめだと言われていたのだ。
卒業まで結局1回もマムシに出会うことはなかった。
結局1回も電車に乗って通うこともなかった。
暗くなるまで遊んでいても友達のお母さんに送ってもらうこともなかった。
気楽な時代だったな。
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