2000年に離婚をしようと決め、1年かけてその準備をした。離婚成立は2002年2月。
なぜ離婚したのか、それについては双方の考えがあるのでここでは触れない。
離婚という出来事を通り過ぎながら、自分が壊れ、暗闇に閉じこもり、前を向いて歩けるようになり、そして今がある。
そして今、再び大事なことを失った傷から背かないために、失ったことを忘れないために記録として書いておく。
私は今ここにいる。私はもう逃げない。傷は大きいけれどいつか風化できることも癒せることも今は知っている。忘れることで自分を癒すなんてできるわけがない。忘れればそれはまた同じことを繰り返すだけだ。だから見つめ、考える。忘れてはいけない。一時のしんどさを跳ね除けたいために逃げてはいけないし忘れてはいけない。
身体の状態はつらいけれど、それも治る方法を今では知っている。
自分一人で回復しようと思うことが治りを遅くすることも、周りを見渡せば皆の愛から自分が今ここにいられることも、今はよく分かっている。
だから逃げない。
今まで誰にも話せなかった自分の最もつらかったことを私の大事な人たちが読むであろうことを分かっているこの場で、逃げないことの証として記録しておきたい。
そして、これを読んだ人たちには、私はあなたたちがいるから今生きて行けるのだと感謝したい。
かつて暗闇にいたことについての物語は暗く、そして楽しくない。
メッセージも込めていない。誰に宛ててもいない。
ただ、今まで誰にも話せないほど自分の中ではしんどかったことを棚卸してみるだけだ。
暗闇に初めて入り込んでから10年弱。ようやく自分の棚卸しを自分以外に語れるようになった。
医者にもかからずカウンセラーにもかからず、友人にももちろん語らずにいた。
どのように伝えればいいかわからずその術を知らなかったから。
今はただ語ればいいと分かっている。
ただの物語。どう感じるかは受け手次第。
そういえば村上春樹もそう言っていたな。自分の本は書きあげたら二度と読まないらしいし、解説本も読まないらしい。
ただ願わくば、人はそれぞれ自分の悲しみを背負っていきているものだから、私の物語を読んだ人が自分の苦しみ・悲しみを逃げずに正面向かい、自分以外の人の愛情が自分を生かしてくれていることを分かってくれれば、私にとってこれ以上の嬉しいことはない。
物語を始める。始めは暗い物語から。
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私は傷を負うことを恐れている。
恐れてはいるけれど、純粋な自己は自己の中にはなく、人との関わりの中でしか自己は意味がないのだから、人と関わり合っていくことは生きていく上で避けられない。そして関わり合えば傷を負うこともある。
その傷から逃げることで自分を守るか。
傷を癒すことで自分を変えるか。
人は所詮、他人には分からない孤独な生き物。だからこそ自分で自分の傷を癒し、繊細なガラス細工ではなく、タフで、でもクリアーな硬質ガラスとして凛として生きたい。凛として生きて行けるから人との関わりの中で自分を分かってもらう努力をし、人をも慈しむことができる。
だから、私は今日までに自分が体験した暗闇を無駄とは思っていない。後悔もしていない。
私の場合はすべては身体への症状に始まる。
心に過度のストレスや傷を負うとまず、食欲がなくなる。記憶や業務遂行やなんかの認知機能には問題がない。これまで仕事はずっと続けているから。休職も時短もない。フルで働き続けている。
それは生きていくための糧であるお金を稼ぐためであり、MARUという存在だけは放り出してはいけないと自分に対して腹をくくってもいるからだ。
その代わり、全ての症状は私自身の身体に表れる。
食欲ないな~と食べる量が減る。2,3日で固形物を受け付けられなくなる。固形物を見ると気持ち悪くなる。野菜や肉、魚からロウソクのような臭いを感じ、口に入れることができなくなる。
次に吐く。
MARUもいるし、一緒に暮らす父母もいるし、心配をかけたくないから皆と変わらない食事をいつもと変わらず日常の会話をしながら口にする。少量だが飲み込む。何も味を感じない。栄養素を口に入れている感覚。
そして皆が分からないように吐き出してしまう。
吐くのはとてもつらい。数回吐くとあまりにつらいため食べるのをやめてしまう。
食べれば吐くから。
私は身長が高いほうで166センチある。なので食べなくなるとエネルギーが全く足りなくなり、貯蓄していた脂肪をぐんぐん使い始め、みるみる内に痩せてしまう。
実は今も似たような状態に向かっている。最後に夕飯を食べたのが火曜日。それから一日に口にするのは野菜スープかジュース、固形物数口。
まだ吐いてはいない。吐くようになると自分でもれっきとした摂食障害であると分かっているから医者に行くことにしている。そして点滴と注射を一日おきに打ち、とりあえずのエネルギーを確保する。
離婚という出来事の前後で初めて自分の身体に表れた症状。
病気であるとは認められず、食べられない自分を責め、仕事にかじりつき、MARUへの余裕もなく日々痩せていく毎日を誰にも話せなかった。話すエネルギーすらなかった。そんなエネルギーがあれば仕事をしていた。仕事だけは生き続けるために「しなければならない」と決めていたから。MARUだけは生かさないといけないと決めていたから。
暗闇にずっと座りながら、でも日中は業務や人に会うことが多く、暗闇にいる自分を忘れ去り、もう一人の私が動いている感覚。暗闇の自分は人ごとのように動かずにそれを見ている。その反動がくるのが夜。夜になると眠れず、持ち帰った仕事をしながらMARUが恐い夢を見たと部屋に入ってきた時だけ母親の顔になり、あやす毎日。睡眠は3時間以上続けてとれなかった。
いつ出られるとも分からない暗闇。でも自分は病気ではないと信じ、頑張りすぎたあの時期。
ある時、突然、息が止まった。
息を吸おうと思ったのに空気が入ってこない。
あせった。あせるほど気道がくっついた様に酸素を取り込めない。
苦しかった。
私の尋常でない様子に驚き、ママを失うかもしれない恐怖に私の足にすがりつくMARUがいた。
苦しい中、わーわー泣くMARUの顔を見た途端、冷静になれた。冷静にゆっくり鼻から息を吸ってみる。少しだけ空気を吸える。頭で過呼吸の可能性を考え、ビニール袋を手に取り、吸った空気を吐き出し、また鼻から吸う。前よりも空気を吸えた。ビニール袋なので空気を吸い込んだ時に鼻に張り付かないよう気をつけながら、もう一度、鼻から空気を吸い込む。また吸えた。
それを繰り返す内に大きく空気を吸えるようになり、泣きわめくMARUをあやすことができるようになりベッドに横になる。
実はその後の記憶がない。その日は遅刻はしたものの仕事に行ったのだが、どうやってMARUを保育園に送り、どうやって会社にたどり着き、仕事をし、帰宅したのか全く記憶にない。おそらくまた、暗闇に座っている自分と、ばりばり働く自分とを切り離していたのかもしれない。
この出来事を経て、私はそれまで「いつ死んでもいい」と、いえ、むしろ「死にたい」と考えていたことをやめる。
いつ死んでもいいからこそ、今は、少なくともMARUが自分一人で生きていけるまでは生きなければならないと決意をした。死ぬ方法を考えることをやめた。私が死んだらMARUを誰に託すかと考えることをやめた。自分の手で育てようと腹をくくった。
だから「生きなければならない」。
MARUの存在だけが私の生きる理由になった。
でもとりあえず、生きたいと思えるようになった。
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