12月はバレエを観に行くことが多い月です。
昨日は2月から通う予定のバレエ教室の発表会を観に行きました。
5教室合同で、多分、中学生以上だけが踊るもののようでした。
バリエーションと言われる、歌で言うところのサビ的な部分だけを、一人で踊ります。たとえば「眠れる森の美女 第3幕 オーロラ姫のヴァリエーション」のように。1曲あたり1分30秒から2分が標準です。
どの踊りもコンクールで課題にされるものばかり。
MARUも私もいつも全幕ものの舞台ばかりで、課題曲だけの発表会を見るのは初めてです。
課題曲は振付もほとんど同じなので、同じ曲を踊る人同士の比較をしやすいのでとても勉強になりました。
ある教室の最後5人くらいがダントツで上手でした。
でも、最後にMARUが通う予定の教室の生徒が出てきたら、その前に「うまいなあ」と思ったのが吹き飛びました。
なんていうのかな。。。出てきた時から空気が変わったのです。
舞台と観客とが一緒になったような、華やかな、そして、たった1分30秒の曲なのに、まるで全幕ものを見ているかのような前後のシーンから続いているような。。。
技術的には先の5人は完ぺきで、おそらくコンクールで受賞している生徒達なのだと思います。
でも、バレエは舞台です。舞台は一人では成り立ちません。照明、道具、監督、音だし、オーケストラ、衣装、振付、そして一緒に踊る仲間たち。。。
自分一人で舞台を演じることはできないのです。
それがバレエです。
だから、コンクールで受賞されることだけを目標としてしまうとまずいのです。自分が、自分が、という踊りをする人はバレエ団に必要ではないからです。皆と一緒に踊りを作りあげられる、そんな生徒をバレエ団は探しています。
そのことは、バレエ団付属のバレエ学校で教わり、バレエ団でプロとしてやってきた先生であればよくお分かりです。
だから、生徒の踊りを見れば、何を教えてくださっているのかがよくわかります。
MARUが通う予定の教室の生徒達は、技術的にはミスもあったけれど、私とMARUはとても大好きな踊りでした。
常軌を逸した技術、たとえばシルヴィ・ギエムのように、トゥシューズでつま先で立ちながら足を180度に上げてそのままキープできる(オメガの広告に使われました)、そこまでの技術力があれば観客を感動させることができるでしょう。
シルヴィ・ギエム以降のバレエは、彼女がスタンダードになりました。バレエで感動させるための表現力の一要素として技術力を中心に据えたという意味で。
それでも、バレエはやはり演劇なのです。演技なのです。踊りではなく。
MARUの弱いところでもあります。
たった1分30秒の演技の中で、その前後のシーンとのつながりまでも感じさせる、まるで全幕ものからそこだけ飛び出したかのような雰囲気をまとっている、そんな演技をMARUは初めてみたのです。
「うまかったね~。○○先生のところのが一番よかった。」
バレエは芸術です。だから何が正しいのか、何が間違っているのか、そんなものありません。
自分がどう演じたいのか。こうありたい姿をひたすら精進していき、表現し、研ぎ澄まされた本質だけが残ります。芸術は本質と等価です。本質は時代を超えて受け継がれます。なので本質を内包する芸術(表現)は、伝統とも言われるのでしょう。
バレエについては私もMARUもまだまだ知らないことが多いのですが、○○先生の教えられるバレエを選んでよかったね、と二人で話ながら帰りました。
そして、MARUには、バレエ団付属のバレエ学校で「バレエとは皆で作り上げるものだ」という考えを刷り込んで正解だったなあと親としては思っていました。バレエ団付属のバレエ学校に通うということは、世の中にあまり知られていない世界だと思うので、またの機会に書きたいと思います。
2月14日。おりしもヴァレンタインデー。この日のオーロラ姫を最後に、次の日から新しいバレエ教室に通います。
さてさてどうなることやら。
最近のコメント