一晩だけの独身の夜を、カルトナージュの仕上げでつぶすのはもったいないだろうと、夜の散歩に出かけました。
Springbankの1997年を飲みながら、母方の祖父のお葬式を思い出していました。
お酒とたばこが大好きで、いつもダンディーだった祖父。私が大学に合格した時、母校に受かったと誰よりも喜んでくれました。幼稚舎からで、昔はお手伝いさんが付き添い授業が終わるまで控室で待っていたような時代。そんなお坊ちゃんだった祖父は、当時としては珍しいアイスホッケーをやるようなハイカラな人で、自分でソーセージやらローストビーフやらを作る「食」にこだわりのある人でした。
祖父の父は建築家で、明治の人ですから財閥から「いくらかかっても、どんなに時間がかかってもいい。納得できるものを作ってくれ。」と言われる時代。そんな祖父の父が作った洋と和の混じった小さな別荘に疎開したまま戦後も住み続け、私が知っている祖父はその鎌倉の家に住んでいる姿です。
天井がやたら高く、不思議な段差と間取りのその家は、扉を開けると不思議の世界へ入れるような錯覚をもたらしてくれ、でもちょこっとだけ恐い感じもする家で、その家で祖父は常に静かに、常にブリティッシュな服で過ごしていました。
海で砂まみれになり、山で泥だらけになっている私や妹は、常にカジュアルと言えば聞こえはいいですが、ブリティッシュとはほど遠いかっこうをしていましたから、祖父の前に出るときは、ファミリアのワンピースを着させられ、ちょっとだけ緊張して会いにいったものです。
そんな祖父が他界したのが大学生の時。
特に宗教を信じているわけではなかった祖父の通夜は、祖父の思い出を語る人が集まるものとなり、夜遅くまで語り合っていました。
母だったか、祖母だったか忘れましたが、「パパ(祖父のこと)が『私が死んだらこれを皆であけてくれ』と言ってたのよ」とブランデーを取り出します。タバコのせいで肺が真っ黒になり、お酒のせいで肝臓も悪くし、とってあったお酒は全て祖父の手元から引き離したのですが、このブランデーだけはとってあったそうです。
ボトルは起き上がりこぶしの形をしていて、机におくとずっとユラユラと動いています。
たしか50年はたっているものでした。
皆でワイワイとボトルを空けながら「さすが飲兵衛のおじいちゃん!おいしいねえ」と昔話が更に盛り上がっていきます。
粋な通夜だなあと、酔いながらも感じたのを、今日、ふと思い出しました。
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